【十戒の九】

 夜の山道を、一人の男が荷物を抱えて歩いていた。
 山道といっても舗装はされており、車も通れるような道だ。何度もつづら折りになっては山肌を縫うようにして伸びているが、悪路ではない。
 だが、男の足取りはおぼつかなかった。それは抱えた荷物が重いからでもあったし、彼自身の体力的な不安によるものでもあった。
 ぜっ、ぜっ、と短く吐き出される息が白い。周囲が寒いからか、それとも力仕事で男自身の体温が上がっているからか。どうにも、その両方であるように思われた。
「……ふざけやがって」
 漏れ出る声すらかすれていた。いつの間にこんなに年をとってしまったのか。
 ほんの数か月前までは、もっと若々しかったという自負が、男にはあった。丘の上の学院で教師をやっていた頃は、こうでは無かったはずなのだ。
 男の名は、岡崎といった。
 落ちくぼんだ目には濃い隅が浮き出ており、無精ひげも伸び放題。夏用のカッターシャツの上から、ボロボロになった毛布を羽織って、どうにか寒さをしのいでいる。教師であった頃の面影など残ってはいない。
 人からそう呼ばれることは我慢ならなかったが、岡崎自身でも、まるで浮浪者の様だと感じていた。実際、浮浪者なのだろう。今の岡崎に定まった住所は無く、最後に残された財産である自動車の中で寝起きする毎日であった。
 息を荒げて歩いていた岡崎は、指先にピリッとした痛みを感じ、荷物を取り落とした。重い音をたてて、ポリタンクが道路に倒れる。しっかりと蓋を閉められたポリタンクの中で、たぷりと水音がした。
 痛みのした指を見れば、荒れ放題の手にまた新しいあかぎれが出来ていた。
 岡崎はのろのろと道路に座り込んで、ポリタンクを起こす。そのままもたれ掛るようにして、何度目になるか分からない休憩を取る。どうせ車など来やしない。
 十八リットルの灯油が、いったい何キログラムになるものか、英語教師であった岡崎に正確なところは分からない。少なくとも、水よりは軽いはずだと知っている。そんな馬鹿な。体感だけで言えば、三十キログラムを超えているように思えていた。
 それでも、灯油が手に入ったのは僥倖だった。これも神の思し召しというものか。そうだ、神があの悪童どもに復讐することを良しとしているのだ。
 そうでなければ、岡崎の手元にこのポリタンクがあるはずが無かった。
 あれは、もう何年前になるだろうか。神波くんが光智学院の高等部へ入る前だったはずだから、少なくとも十数年は前だ。
 確かそう、期末テストで赤点をとった馬鹿な生徒のために、岡崎が休日出勤してまで補修授業を行ってやった日のことだった。

   ◆

 最近の生徒は質が落ちたと、岡崎はひとりごちる。わざわざ温情として補修を行ってやったというのに、真面目に受けているのが半数もいないとは嘆かわしい。
 内心で教え子たちへの文句を重ねながらも、せっかく学校まで来たのだからと、岡崎の足は自然と教会へ向かっていた。長くこの学院で教師をしていたからか、神に祈るという行為はすっかり日常の一つとなっている。
 校内にある礼拝堂ではなく、教会へと足が向いたのは休日だったからだ。鍵がかかっているだろうことは想像に難くない。
 車は校内の駐車場にとめたまま、岡崎は山道を歩いた。教会に併設された孤児院のそばで、中学校の制服に身を包んだ少年と行き会った。
 少年は、手に持っていた赤色のポリタンクを降ろすと、岡崎へ向かって挨拶をした。
「こんにちは、岡崎先生。礼拝ですか?」
 礼儀正しく頭を下げられ、岡崎も良い気分で挨拶を返した。
「ああ、神波君。こんにちは。そのつもりだったんだが……それは?」
 岡崎は、神波少年が先ほどまで手に持っていたポリタンクへ視線を向けた。
「灯油を汲みに行くんです。ちび達にはまだ任せられないんで、中学生以上が交代で。今日は、僕が当番なんですよ」
「君、一人でか。重いのではないかね」
 岡崎は目を丸くする。中学生になったとは言え、成長期の終わっていない神波少年は、いかにも頼りなく見えた。幼い頃から見知っていただけに、尚更そう思えた。
「持てないほどじゃ、無いですよ。持ち手も大きくないし、二人で持つにもバランスが悪いですし」
「交代で持つという方法だってあるだろう。どれ、私が手伝ってあげようじゃないか」
 既に妻子ある身の岡崎にとって、直接的な支援は難しいことであったが、できることなら神波少年の力になりたいと思っていた。あるいはそれは、彼の母親に対してできなかったことの代償行為かもしれなかったが、些細なことであれ手を貸したいという気持ちは本物であった。
「そんなご迷惑は……いえ、ありがとうございます。お願い、できるでしょうか」
「任せたまえ」
 一度は断ろうとした神波少年だったが、岡崎の意を汲んだのか、頷きを返して来た。聡い子どもである。その賢さが、どこか悲しいものであることを、岡崎は分かっていた。

 まさかガソリンスタンドまで歩くわけでは無いだろうと思っていたが、空っぽのポリタンクを持っての移動は、本当に短いものだった。教会にほど近い所に立つコンクリート製の倉庫の隣に、大きな灯油タンクがあった。
 神波少年の話では、ひと冬分の灯油が入っているとのことで、足りなくなればそれこそガソリンスタンドへ注文して、このタンクへ直接補給することになるのだそうだ。
 慣れた足取りで、神波少年は倉庫の入り口へ向かう。
「蛇口だけ、倉庫の中にあるんです。外に出しておくと、泥棒されるかもしれないから」
 そう言って、神波少年はシリンダー錠の番号を回す。
「不届き者というのは、どこにでも居るものだ。しかし、私も一応部外者だが……」
 神波少年は岡崎の言葉を軽やかに笑い飛ばした。
「岡崎先生がですか? 休日にわざわざ礼拝に来られるような人が泥棒を?」
「もちろん、するわけがない」
「でしょう?」
 キン、と高い音を立ててシリンダー錠が外れた。一、二、二、五。見ようと思ったわけでは無かったが、あまりに覚えやすい数字が目に飛び込んできた。
「神波君。その番号は少々、安直すぎないか……」
「院長先生に言ってくださいよ。それに、イヴじゃなくて当日っていうあたりが、らしいじゃないですか」
 小さく笑った後、神波少年は慌てたように付け加えた。
「あ、でも、一応見なかったことにしてくださいね。できれば忘れてしまってください」
 どこか縋るようなその視線に、今は遠い女性の面影を見た。岡崎は鷹揚に頷いた。
「努力しよう」

   ◆

 言葉どおり、努力はしたはずだった。しかし、岡崎の優秀な頭はあまりにも安易なその数字を忘れはしなかったし、平和な頭の院長がこの十数年でシリンダー錠の番号を変えることもなかったようだった。
 岡崎は首尾よく灯油を手に入れて、こうして息を切らせて歩いているというわけだ。
 あの時は、少年時代の神波と交互に持っては孤児院まで灯油を運んだ。
 今は一人だ。
 随分と長く座り込んでいたらしく、汗が引いた替わりに体が冷えていた。ポリタンクに手をついて立ち上がる。
『給仕にわざわざ礼拝に来られるような人が泥棒を?』
「……もちろん、するわけがない」
 だから、これは神の思し召しだと、岡崎自身が結論づけた。この日のために、今日の岡崎のために、シリンダー錠の番号は変わらずにいたのだ。
 そうは言っても、光智学院へ赴任したばかりのあの薄汚い男には、神の御心など理解できないだろう。盗んだ、などと言われては業腹だ。
 しかし、奴に絶望を味わわせるためには、灯油のことは言っておきたい。灯油を買ってきた、とそう言えば良いかと岡崎は考える。
 槙原というエセ教師が、どんな表情をするかと考えるだけで、足の重みも腕の痛みもまぎれるようだった。
   <十戒の九・了>




 ネヴァジスタ三周年おめでとうございます。
 神波さんの周囲に居た優しい大人達の中に岡崎先生が入っていたらいいなーとか、そういうの。


◆ ぶそあ
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