真っ暗な空にぽつんと、月だけがそこにあった。
きっと傍には無数の星が存在している筈だ。けれど、俺の視界には淡く光り輝くその月しか見えなかった。星を眺めるにはこの地上には光が溢れすぎているのだろう。
ああ、でも。そう俺は考えを改めた。あの丘の上の学校では夜には沢山の星々が夜空を彩っていた。星を眺め笑う子供達の横顔を思い出すように俺は瞼を閉じる。
単車を止め空をずっと見上げていた顔を自宅に向ければ、カーテン越しに漏れる明かりに胸を撫で下ろして寒さで詰めていた息をそっと吐き出し苦い笑みを漏らした。
共に暮らし始めた頃はこの帰りを待っているような灯りに居心地を悪くしていたというのに、今ではどこか安心している自分がいる。
まるで、最初から一緒に暮らしていたような錯覚にすら覚えた。

『清史郎が、成人式には行かないって言うんだ』
瞠の言葉を思い出す。電話越しの声は途方に暮れた子供のように弱々しかった。
かかってきた着信を受け取ったのはたまたまだった。仕事帰りに時間を見ようとディスプレイを眺めたと同時に、瞠の名前がそこには映っていた。
内心首を傾げながらも、面倒なだけじゃないのかと返せば鈍い返事を寄越された。今ひとつ納得し兼ねているようだ。
『アイツ、まだ大人になりたくないって思ってるのかな』
ぽつりと呟くような声に、思わず言葉をつまらせた。数年前の出来事が次々と脳裏に浮かび消えていった。弟である清史郎の失踪、俺を閉じ込めた学生達、槙原の教え子だった古川鉄平の死。そして…ネヴァジスタ。
俺は適当に言葉を返して瞠との電話を終わらせた。あの後何を話したかは完全に頭から飛んでいた。
「…」
そこまで思い出して、知らずにビニールを強く握りしめていた手に気づきふっと力を緩めた。突き刺さるような冷たい風が頬に叩いていく。今にも雪が降りそうだと思い俺は重い足をあげる。
袋の中で擦り合いぶつかる缶の音が小さく響いた。

「飲まないか?」
帰宅した俺を出迎えた弟に、俺は袋を掲げ揺らしてみせたる。きょとんとした顔でこちらを見る清史郎は嬉しそうに目を輝かせたがハッとして気難しげに顔を顰めた。
視線を下にずらし飼い犬をじっと見つめて口を噤む弟は何かを我慢している子供のような顔をしていた。
「俺、酒飲んだことねーし」
「お前、もう二十歳になったろ。大学の飲み会とかどうしてるんだ」
「ジュース飲んでる」
「お前な……」
流石に呆れて清史郎に視線をやればムッとしたような顔で睨み返された。
機嫌を損ねるのは面倒だと話題を逸らす、基戻そうと俺は袋の中に手を突っ込み缶を取り出してやる。
「酎ハイくらいならお前も飲めるだろ。俺の奢りだ、飲もうぜ」
首を傾げる犬の横で渋々ながらも清史郎はこくりと頷いた。

「甘くない炭酸みたい」
「飲めるだろ」
「うん」
「これも飲んでみるか?」
飲んでいた缶ビールを清史郎に渡すと清史郎の目が先ほどのように輝きだした。
「これビール?」
「そうだ」
「俺、ビールって飲んでみたかったんだよ。なんかカッコイイし」
嬉しそうにぐっと缶を仰いだ清史郎は瞬間顔を顰めてげぇっと吐き出すような仕草で口を開いた。
予想通りの反応に苦笑が漏れる。
「まっずう!!なにコレ、苦いしまずい!」
「清史郎にはまだ早かったか」
「何でこんな飲み物飲めんの」
「飲み慣れれば美味しく思うさ」
「ふーん、そんなもんなんかな…」

「成人式に行きたくないんだってな」
眠りについた犬が尻尾をゆらりと一度揺らした。
俺達の飲み干した缶を並べていた清史郎は俺の言葉にバッと顔を上げこちらを向いた。ベッドに座って見下ろしていた俺がシーツに手を置き隣に座るように叩くと気まずそうにのろのろと緩慢な動作で隣に座った。
「誰に聞いた?瞠」
「…何故行きたくないんだ」
質問にはあえて答えずそう問い掛けると清史郎は瞠だなと納得し頷いて俺を見返した。
「旅に出るから」
「は!?」
「だから成人式行かねーの。ちょっと日本横断してくるから、土産楽しみにしててな!」
「ちょっとそこのコンビニに行くからみたいなニュアンスで言うな!」
やると言ったら本当にやってのけてしまうのがこの弟の怖いところだ。息を吐き清史郎に向き合うと清史郎は居心地悪そうに身動ぎした。旅も冗談ではないのだろうが、真意は別にありそうだ。
「何故行きたくないんだ」
「だから旅に…」
「本当のことを言えよ」
「………笑わねえ?」
「笑わない」
「槙原先生や皆に言わない?」
「言わない、約束する」
暫くの沈黙の後、ぽつりと清史郎は呟くように言葉を落とした。
「成人式に行ったらさ、本当に大人になっちゃう気がするんだ」
「……」
「瞠達はそんな大したもんじゃねーって笑ったよ。でも、そういう式みたいなのに参加したら俺はもう大人になる気がするんだ。あれだけなりたくないって思ってたのに。」
「………」
「兄ちゃんは、俺を笑う?」
「……いや」
不安なのだろう。迷子になった子供のように途方に暮れた顔でこちらを見上げる清史郎にそう思う。
大人になる自分も、子供である自分を終わらせることも、清史郎にとっては未知の体験だった。
「成人式に行ったからって何もすぐに大人になるって訳じゃない。」
まあ確かに、社会的には大人の仲間入りにはなるが。と付け足して俺は清史郎の顔を覗きこんだ。
「何を恐れているんだ」
「何…」
「何が不安なんだ」
「……」
「お前が大人になることを誰も責めてはいない」
ずっと昔に俺は、大人になんてなりたくないと、幼い清史郎に話したことがあった。
両親に裏切られたような気持ちで、傷ついた心の血を吐き出すようにまだ物心がついたばかりの清史郎に告げた。
「子供の清史郎も、これから大人になる清史郎も、俺が見届けてやる」
清史郎は、その言葉をずっと覚えていた。壁に刻まれた古川の遺言のように、俺は弟の心に刻みつけてしまった。
だから、もっと早くに俺が言ってやらないといけなかったんだ。
「お前は大人になってもいいんだよ」
まっすぐに清史郎を見つめると目を見開いた清史郎がぐっと唇を引き締めた。
言葉を重ねるように口を開いた瞬間。
「…っ」
ぐらりと揺れる視界に頭を抱える。
どうも飲み過ぎたようだ。一気に襲ってきた酔いに脳みそがぐらぐらと揺さぶられているような気分になった。もう若い頃と同じ飲み方も肉体的には出来なくなったということだろうか。宥めるように背を撫でる清史郎の手が心地よかった。
「兄ちゃん、飲み過ぎ」
「……そうかもな」
「無理すんなよ、もう若くねーんだからさ」
「お前、殴るぞ」
失礼なことを言う弟の頭を軽く叩いてやると清史郎は嬉しそうにへらりと笑った。確かに清史郎達に比べれば多少年を食ったかもしれないが、まだ三十路に到達したばかりだ。まだまだ現役でいいだろ。何がとは言わないが。
隣に座る清史郎の顔をじっと見つめる。まだ幼さは残るが随分と大人びた。
身長も、いつかは追い抜かれてしまうのだろう。だけれど、それを楽しみにしている自分も確かにいた。
「なあ、清史郎」
「うん」
「お前は、俺の弟だよ」
「…」
「自慢の俺の弟だ、清史郎」
「…うん」
泣き出しそうな笑顔を浮かべた清史郎は手を伸ばし俺ごとベッドの上に倒れこんだ。
酔いも相まってぐらぐらと揺れる視界を落ち着かせるように目を閉じると清史郎の吐息が耳に吹き込まれた。
「兄ちゃんも、俺の自慢の兄ちゃんだよ」
「…ああ」
「俺はずっと、そうやって、胸を張って言いたかったんだ」
誇らしげに、大切な宝物を自慢するように。負いも引け目も感じずに。
ぽつぽつと言葉を落とす清史郎に、俺は何度も頷いた。
ああ、そうだな。俺もずっとそう思っていたよ、清史郎。
「兄ちゃんは世界でたった一人の俺の兄ちゃんだよ。俺の大好きな兄ちゃんだよ」
薄れゆく意識の中で、首に縋りつく清史郎の温もりを全身で感じて安心したかのように俺は眠りに落ちた。


翌日。起床した時には既に太陽は真上に昇っていた。
ズキズキと痛む頭を抱えながらベッドから降り辺りを見回しても清史郎の姿は何処にもなく、机の上に一枚の置き手紙があるだけだった。
兄ちゃんへ、と書かれた手紙を手に取り嫌な予感がしながらも恐る恐る封を開ける。
【兄ちゃんへ 考えたんだけどやっぱり行くなら今しかないって思うんだ。だからちょっと旅に出ます。お土産を楽しみにしててください。清史郎】
清史郎の字で手紙にはそんなことが綴られていた。
「……清史郎……お前って奴は……」
あまりに予想通りな内容に全身から力が抜け机に突っ伏してしまう。
そうだ、この弟は言い出したら聞かない奴だっただとか思い立ったら即行動するようなめちゃくちゃな奴だっただとかぐるぐると巡る思考を走らせながらも俺の口元は緩んでいた。
自分の信じるものがあればどこにだって駆け出していく、それが俺の知っている弟だ。
それが俺の知っている、俺の愛する弟だった。

何度目かの呼び出し音が鳴った後、電話に出た相手に俺は開口一番に結論を述べた。
「清史郎が旅に出た」
『は!?』
素っ頓狂な声を発した瞠に「あー悪い、まあそういうことだから」と通話を終わらせようとすれば慌てたように制止の声をかけられる。仕方なくもう一度携帯を耳にあてると焦ったような子供の声が電話越しに聞こえた。
『どういうことだよ、お前また何か言わなくていいことでも言ったのか?』
「別に言ってねーよ。朝になったら手紙を置いていなくなってただけだ」
『ぜってぇ何か言っただろ!!駄犬!』
キンキンと喧しい電話相手に顔を顰め少し携帯を遠ざけた。その間も瞠は自己嫌悪の輪に落ち始めていたようで声のトーンが段々下がっていくのがわかった。
『なにやってんのお前本当なにやってんの。お前に任せた俺が馬鹿だった、マッキーかハルたんに相談すれば良かった…!!何やってんだ俺…!!』
「まあ、落ち着けよ。清史郎も気が向けば成人式に出るだろうさ。知らんが」
「つーか、何でお前はそう落ち着いていられるんだよ!清ちゃんが心配じゃないのかよ!」
声を荒らげる瞠の言葉を受けて、俺はゆっくりと、誇らしげに笑みを浮かべた。


「アイツなら大丈夫さ、なんたって俺の弟だからな」




ネヴァジスタ三周年おめでとうございます!これからもタースさんとネヴァジスタを追いかけますーーー。
いつまでも大好きです!


◆ めろどら
◆ @tatiba87



Copyright 2013 図書室のネヴァジスタ三周年記念 All Rights Reserved.