槙原渉、という男のことを誰かに尋ねられたら、神波はただ一言、こう言うだろう。
 ――とても鬱陶しい男だ、と。
 神波は槙原のことが苦手だった。では、嫌いなのかと聞かれれば、首を横に振っただろう。
 そんな複雑怪奇な想いを神波に抱かせる槙原が、小脇にウイスキーの瓶を抱えて牧舎にやって来たのは、クリスマスも間近な、ある冬の日だった。

 その日はちょうど休日で、教会の中にはきらびやかなクリスマスツリーが飾られていた。施設の子供たちが、クリスマスの教会でのイベントのために、昼間にオーナメントの飾り付けをしたのだ。
 もちろん、牧師をしている神波もその作業を手伝った。子供たちは芝生の上を転がる子犬のように喜んで、小さいリンゴやカラフルなステッキ、ろうそくや光る球体を次々に飾り付けた。それからひとしきりツリーの下で遊び回り、疲れたように眠ってしまった。
 神波は一人一人がきちんとベッドの中に入って目を閉じたかを確かめたうえで、クリスマス当日に子供たちに配るクッキーを作るために小麦粉と格闘することにした。
 台所にボウルを出し、中に小麦粉と砂糖と卵、それから牛乳を少々。小麦粉は水分を吸ってころころとしただまとなり、しばらく捏ね回していると、なめらかにかたまり、一つの生地になった。
 それを冷蔵庫に入れて、しばらく寝かせ、伸ばし棒で薄く生地を伸ばしてから星や花型に切りわけ、アーモンドやナッツ、ドライフルーツをトッピングしてオーブンに入れる。少しの間待っていれば、香ばしい匂いを漂わせ、クッキーが焼きあがった。出来栄えは、自分でも誉めていいかもしれないほど。
 しかしながら、どちらかと言えば、ここからが重要なポイントだった。
 満足のいく出来にひとしきり頷いた後、クッキーのあら熱を取り、ラッピング用の袋に入れて、男の子用の青いリボン、女の子用のぴんくのリボンを取り付けた。
 大切なことは、個数を間違えてはいけないことと、均等にすること。
 子供たちはとても敏感で、クッキーの枚数が、まるで神波からの愛情の重さであるように競い合うのだ。愚かで可愛い子供たち。そんなこと、あるはずがないのに。
 一心に手を伸ばしてくる様は、昔、神波の愛情を欲しがった、一番愚かで可愛い幼子を思い出させた。
 だから神波は、慎重かつ平等にクッキーをより分けた。あの時と同じ失敗を繰り返さないように。特別に愛されているのだ、と期待させないように。
 子供たちの人数分のラッピングを終えると、ちょうど一人分のクッキーが余ってしまった。いつものくせで作ったものだから、今はもういない一人分が余ってしまったのだ。
神波は少し考え、結局それもラッピングすることにした。男の子用の水色の包装紙と、女の子用のぴんくのリボン。
そこまで終えて、神波はふと、時計を見た。午後八時すぎ。クッキーを作るのに夢中になりすぎていたらしい。
 悪い癖だな、と自分で苦笑して、外を見た。
「どうりで寒いわけだ」
 ガラスの向こうで、はらはらと雪が舞っていた。今年初めての雪だ。もしかしたら、ホワイトクリスマスになるかもしれない。
 寝る前に、今週の天気予報をチェックしなければ。子供たちが住んでいる施設の玄関先は、水が溜まりやすくなっていて、もし凍結でもしてしまったら、サンタとして忍び込む時に転倒してしまうかも。
 今年こそサンタを捕まえるのだ、と瞳をきらきらさせて意気込んでいた子供たちに見つかってしまえば、用意した衣装も髭も、きっとはぎ取られてしまう。
 神波は「はあ」と重苦しいため息をつき、今しがたできたばかりのクッキーを、一番上の戸棚にしまいこんだ。ぱたん、と戸棚の扉を閉め、さて残った最後の一つをどうするべきかと考えだしたところで、インターフォンが鳴った。
 牧舎の大人の中で一番年下である神波は、手を洗い、いそいそと玄関先まで出て、扉を開けた。
 扉のむこうには、予想外の男が鼻を真っ赤にして、つっ立っていた。

「……ちょっと、お酒臭いんだけど」
「あれ、そんなに臭います?」
 挨拶するでもなく、ぶしつけな神波の第一声に、男がへらりと笑った。それから袖口に鼻先をひくひくさせている。その姿はお世辞にも大人には見えない。どう見ても学生のよう。だが、残念なことに、彼は歴とした大人だった。
 槙原渉。
 子供のように素直でわがまま、それ故に苦手な大人だった。
「教師なのに、酔っぱらったまま施設の周りを徘徊する癖でもあるの?」
「あはは、酷いなあ。晩酌のお供を探してたんです」
 呆れたように神波が言えば、酒気で潤んだ槙原の大きな目が細まった。
 肩を竦めて神波が男に告げる。
「余所をあたって?」
「知ってるでしょ? 僕が未だに先生方からいじめられてるの」
「さあ、知らないな」
「けち」
「なんとでも」
「ちぇっ! あ、お邪魔します」
 彼がほかの教師陣たちに嫌われている理由と原因はもちろん知っているが、寒い冬の日――しかも、クリスマス前に男と酒を飲む趣味はない。
 そう言って追い返そうと思った矢先、槙原は神波の脇をするりと通り抜け、家の中に入ってしまった。
「……図々しい」
「まあ、そうおっしゃらず。ね?」
 靴を脱いだ槙原が、くるりと振り向き、笑った。手の中に、上等のウイスキーを掲げて。

****
 
 カラン、と氷が鳴った。
 琥珀色の液体がなみなみと注がれたオールド・ファッションド・グラスに光が通り、テーブルの上を万華鏡のように舞っている。
 神波はグラスに落としていた目線をあげて、目の前で嬉しそうに目を細めている男を見た。
「なに、それ。いやらしい顔」
「……誤解を生むようなこと言わないでください。ただ笑ってただけじゃないですか」
 片頬をぷくりとふくらませる槙原に、神波は目を眇めた。
「そういうのやめなよ。それだから、ほかの先生たちになめられる」
「それはアドバイスですか?」
「さて、どうだろうね?」
 眼鏡の下の瞳をまあるくして、槙原が首をかしげた。曖昧に答えて、神波はグラスを手に取り、中身を一気にあおる。
「あ、ちょっと! そんなに一気飲みしたら、前みたいに吐いちゃいますよ?」
「……嫌なことを思い出させないでよ」
 数年前の、海辺の家での出来事を思い出して、神波は眉をしかめた。
 ロックとはいえ、グラスに半分以上残っていたウイスキーを一息に飲み干せば、胃から食道にかけて、かっと熱くなる。
 槙原はいつもの、困ったような曖昧な笑い方をして、開いたグラスに琥珀色の酒を注いだ。
「これ、結構いいお酒なんです。だから、もっとゆっくり味わって飲んでください」
「人の貴重な時間を盗っていっているのだもの。元をとろうとしているだけだよ」
「うわぁ、神波さんって友達いなさそうですよね」
「寒空のなかに叩き出されたいの?」 
 声を低くして言ったつもりだが、槙原は肩を竦めただけだった。
 それから、顎に手のひらをあてて、大きな瞳をゆっくりと瞬きさせた。
「お水、せっかく用意したんです。飲んでください。ゆっくり、一口。口に含んで」
 言い聞かせるような声音に従ったつもりはないけれど、自然と、言われるがままに、神波は用意されていた水の入ったグラスに口をつけた。
「……あまい」
 ウイスキーはシングル・モルト。後味に微かに甘みはあるが、舌の上で転がせばぴりりとした刺激と重みを感じる味だった。だというのに、後味が舌に残るうちに水を口に含んだ感想が、甘い。
「面白いですよね。ほかのお酒じゃ楽しめない味わい方です」
 不思議な味の変化に、神波はもう一度、水を口に含んだ。口の中の水は、もう甘くはなかった。
 しきりにグラスとウイスキーの瓶を交互にみつめていると、槙原がくすくすと笑っていた。
 眼鏡の奥で、きらきらと好奇心に満ちた瞳が輝いている。子供のような瞳。
「……そんなに見ても何も出やしないよ」
「僕、優しくしてくれる人を絶賛募集中で」
「残念。優しさはあいにくと限定販売でして」
「ちぇっ。今なら何でも叶えてくれると思ったのに」
 唇を尖らせる槙原を見て、少しだけ胸がすっとした。
 いつも彼には振り回されている。いい気味だ。
「いい大人なのに、甘やかされたいの?」
「甘やかされたいです。甘やかしてください」
 追い打ちを掛けるために続けた言葉を、槙原は素直に肯定した。
「困った時は手を差し伸べて、迷った時はアドバイスして。優しく慰めてよ」
 素直な要求。彼らしい。
 槙原がテーブルの上に、コツンと頭を置いた。
「またハブられたんだ」
「ううっ……」
「子どもたちを味方につければいい。君は生徒たちに人気がある」
 幽霊棟の子供たちが卒業しても、彼の周りには子どもの姿が絶えることはなかった。
 槙原先生、マッキー、槙原――様々な呼び名で、親しげに彼が呼ばれているところを何度も見た。
「それじゃあ駄目です。子供って聡いから、真似しちゃったら大変だ」
 白い指がグラスの縁をなぞるのを見ながら、神波は言った。
「時間が、解決してくれるよ」
「……でも、もう三年です」
「何言ってるの。僕たちにとってはたった三年だ。子供たちにとっての三年はとても長いものだけれど、大人にとっては一瞬だよ」
 青春のきらめきは流れ星みたいに短いが、青春の残滓は驚く程に長いのだ。そう言うと、槙原がくつくつと笑った。
「そうかな……そうかも」
「そうそう。定年までどれぐらいあると思ってるの」
「おじいちゃんになってまでいじめられてたら嫌だなぁ」
 グラスを小さく振りながら、槙原は行儀悪くテーブルに肘をついた。
「神波さんは僕には優しいのに、あの子には優しくできないんですね」
 突然話を変えられて驚きに目を開く。なんのことだと一瞬考えて――理解した途端、浮上した気分が一気に急降下したのを感じた。
「……なんでいきなりあの子の話になるの」
「瞠くんから電話があって。神波さんがクリスマスには帰ってこなくていいって言ったって」
 予想するべきだった。あの子は弱ったとき、自分ではなくこの男に相談することを。
「君には関係ない」
「ありますよ。僕の可愛い生徒をいじめないで」
「もう生徒じゃないでしょ」
「今でも、可愛い教え子です。……何でそんなこと言ったんです?」
 槙原が神波の顔をのぞき込んできた。明るい茶色の瞳は酒気を帯びているくせに濁りがなく、それが嫌に勘に障った。
 がたっ、と音を立てて席を立つ。酒宴をお開きにする頃合だろう。しかし、神波が身を翻そうとした途端、むんずと服の袖を捕まれた。
「……離して」
「駄目です」
 がんとして譲らないという態度。変なところで頑固ものの青年は、こうなったら梃子でも動かないことは、嫌と言うほど知っている。
 辛抱強く、じっと見上げてくる大きな瞳に、結局は忍耐力のない神波のほうが折れた。
 諦めたように再び椅子に座り、吐息とともに言葉をこぼした。
「……きっと僕は、あの子に酷いことを言ってしまう」
 大学に行ったあの子のことを思い出す。
 卒業してすぐ、まだ大学になれない頃は、ちょっとした連休には必ず顔を出していた。
 それが半年も経たないうちに、帰省するのは大型連休だけになり、この一年に至っては、連休の中でもほんの数日、顔出し程度。
 目減りしていく邂逅は、彼の心が大人になっている証拠でもある。
 神波はそれを素直に喜べないでいた。
 自分の知らないところで傷つき、自分に相談もなくその傷を癒し、自分の知らない子へと伸びやかに成長していく。
 そんなあの子を見ていたくなかった。
 だからきっと、次にもし会ったら、責めて、詰って、傷つけてしまう。だから会わないほうがいい。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 目の前の男が、すべてを知っている、という風な顔で微笑んだ。
「神波さんは寂しいんですね」
「……怒るよ」
 大きい目が、うっすらと細められた。見透かされている。
 それがいやに苛立たしくて、声を低くして言ったのに、槙原はふふっと笑いを口に含んでいるだけだ。
「ねだったらいいんです。クリスマスプレゼントに。寂しいって。そしたらあの子は、きっと息をきらして、走ってきてくれます」
 あの子は優しいから。
 槙原が言った。
 そんなことは、言われなくても分かっている。自分の方が、よりずっと。
「そうじゃない」
 不機嫌を隠さずに言うと、槙原の笑い方が変わる。
 にやにやと、愉悦を隠さない笑み。にんまりと三日月型に変形した瞳が、神波の顔をのぞきこんだ。
「意気地なし。恥ずかしいんだ?」
「うるさいな」
 ぐしゃっと手のひらでその顔を押し返すと、ぐえっと潰されたカエルのような鳴き声が聞こえた。
 外気で冷えたレンズの感触が、指先から伝わる。
 手を離すと、指紋がついたじゃないですか、と槙原が頬を膨らませたが、知ったこっちゃない。ざまあみろ。
 心の中でせせら笑っていると、槙原がガタン、と席をたった。
「神波さんが優しくないので、僕はもう帰ります」
「うん、さっさと帰って。誰もいない寮で寂しく酒瓶を抱えて寝てなさい」
「うっ――」
 恨みがましい視線を感じながら、鼻先で笑ってやる。
 すると槙原が、無造作に食器棚に置かれていたお菓子に気がつき、手にとった。
「ちょっと、それは!」
 焦る神波の顔を見て、槙原が何かを悟ったかのようにほくそ笑んだ。
「授業料です」
「頼んでない」
「事後なんで」
「押し売りはやめて。いやらしい言い方」
 水色の包装紙に、ピンクのリボン。
 槙原が優しい色を灯した瞳で、手の中の小包を見つめた。
「素直じゃないなぁ」
「余計なお世話」
 槙原の手から小包を奪おうと手を伸ばすが、彼はひょいと身軽に避けた。酔っ払いのくせに生意気。
「これは神波さんから僕へのクリスマスプレゼントっということで」
 くるっと槙原が身を翻した。無造作に掛けてあったコートに手が伸びる。彼がふわりと、それを羽織った。
「俺からプレゼントを強奪しておいて、君からはないの?」
 せめてもの意趣返しに嫌みったらしく言ってやれば、槙原は顔だけで振り返った。
「じゃあ、特別なアドバイスを。――作ってあげればいいんですよ。あの子のために、特別な一つを」
 そしたら、今年はとってもハッピーでメリーなクリスマスになりますよ。
 言うだけ言って、槙原は鼻歌を歌いながら玄関を開けた。
 彼の体越しに外を見る。ちらちらと降り出していた雪は、地面に冷たくてふわふわな、白い絨毯を敷いていた。
「少し早いですが、メリークリスマス。神波さん」
「……メリークリスマス」
 彼の言葉に、不承不承と言った体で言葉を返す。
 そのくせ、不思議と嫌な気分じゃないのが複雑だった。
 雪の中に消えていく槙原の後ろ姿を見送りながら、神波は大きくなった小さなこどもが一番喜ぶ、とっておきのお菓子は何だろう、とぼんやりと考え出していた。




ネヴァジスタ三周年おめでとうございます!
 ネヴァに出会って三年以上経つのか…と感慨深いです。
 ネヴァジスタにはまる切っ掛けになったFOOLがこの度アップデートディスク化ということで、まだまだネヴァジスタは熱いです!
 ネヴァジスタだいすき!


◆ 高瀬
◆ @takase_mogumogu



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