「こんばんは」
ピアノの譜に真剣になっていたから、突然に声をかけてきた人の声に振り返って、驚いた。
石野眞は、幽霊棟の学生たちに監禁されていた津久居賢太郎の友人だ。そうそう頻繁に見る顔じゃない。
俺もこの間、槙原の飲み会であったばかりの人間だった。ついでに言えば、彼のことは好きじゃない。
私を堪能して下さったんでしょう。そう言った彼の笑顔は爬虫類のようで、ちょっと気持ちが悪かった。
「――どうしてここに?」
「津久居君に迎えに来いと言われて。幽霊棟で飲まされたらしいよ。ついでにご挨拶に寄ったら、
ピアノの音が聞こえたので」
誰かに呼んでくるように頼むでもなく、中まで入り込んできたらしい。図々しいことこの上ない。
「来なくていいよ。挨拶なんて」
「ピアノの練習中ですか」
俺の素っ気ない態度を気にする様子もなく、尋ねてくる。
「そうだよ。近いから、クリスマスの練習中。20時までしか弾けないから、邪魔しないで」
「牧師さんが弾くんですか。いいですね」
「こき使われてるんだよ」
「一曲、聞かせてくださいませんか」
自分の胸に手を当てて、優雅な仕草で請う彼は、紳士のように見えるけれど胡散臭い。
こういう仕草が女性に受けるんだろうか。息を吐いて、妙な方向に転がり落ちていきそうな思考を止める。
「何で。別に興味ないでしょう」
「好きですよ。サティとか。たまにジャズピアノの編曲で聞くので」
そう言いながら、彼がピアノに近づいてきた。俺はつい口の端で笑ってしまう。
「……好きそう。誰か口説くのに使ってそうだね」
追い払ってしまいたいのに、つい零れ落ちた言葉にはっとした。僻みのように聞こえたかと思ったけれど、
石野眞は肩を竦めただけだった。
「おやおや。心外なことを」
「じゃあ、何が好きなの」
「5つの夜想曲とか、夢見る魚とか」
「何それ。流石にそんなマニアックな曲、知らないよ」
「弾いてくださるんですか?私のために?」
「今そんな話ひとつもしてないよね?」
「私は弾けないので」
「……弾けないの?」
「何故意外そうに聞くんです?」
「足でも弾けそうな顔をしてるから」
ふ、と石野眞が目を細めて笑う。アップライトピアノの端の鍵盤を、彼が指で押した。
高い音が細く鳴り響く。
「無理ですよ。聞くのは好きなんですけど」
「大人しく弾いてって言ったら。好きな曲なら弾いてあげるよ」
「では、ジュトゥヴを」
わずかに思考する沈黙を落とした後に、石野が告げたタイトルに俺は顔をしかめる。
「うわ、来た」
「弾けるのかと思いましたので」
しれっとした顔で言う。この顔は絶対にタイトルの意味を知っている。
何を好き好んで男2人の夜の牧師舎で、この曲を弾かなきゃならないのか。
俺は肩を竦めて、首を振った。
「弾けるけど弾きたくない。ジャズはうまくないし。……クリスマスの練習中だったんだよ。坂本龍一で我慢して」
「メリークリスマス、ミスターローレンス?」
「そう。たまに弾けって言われるよ」
「そんなに観た人が多いのかな」
「曲がいいからでしょう。出だしが綺麗だ」
椅子を引いて鍵盤の前に、腰を下ろす。弾き慣れた曲の拍を思い出して、見えない譜の示す位置に指を置いた。
夜の牧師舎に繊細な高音が雪の降りだしのように響いて、少しずつ重なっていく。彼がさっき偶然に指で押したF5からの。
この曲は嫌いじゃない。
イントロから離れて不意に中音域から始まるメロディラインは、まるで静かな雪道を一人で歩くかのようだ。
弾き終わって顔を上げると、口元を緩めた爬虫類の笑顔と目が合った。
「なに」
「その曲をクリスマスに?」
「……」
「改めて聞くとね。綺麗な曲だけれど、どこか不幸そうですよ。映画のせいかな」
「人が聞きたいって言うんだから」
「クリスマスに幸福な人ばかりではない、ということですかね」
「たまたまキリストが生まれた日だからって、誰もが幸福って訳には、いかないでしょう」
「では貴方は?」
唐突な問いに、目を瞠る。座ったままの俺に探るような視線を向けてくる男に、挑むような視線を返した。
「――幸福だよ」
「一瞬、詰まったね」
笑いながら指摘されて、ぶん殴りたい気持ちを抑える。この男は本当に人を苛立たせるのが上手い。
殴ってしまえたらいいのに、ここは牧師舎だ。彼の反撃も予測がつかない。素性は知っていても、どうにも得体が知れない。
「ピアノをありがとう。そろそろ津久居君を迎えに行きますよ」
不穏な空気を破るように、石野がひらと手を振って、にこやかに扉に向かう。俺も立ち上がって見送った。
「お粗末さま。石野さんがクリスマスに来たら、この曲を贈ってあげるよ」
「おやおや。それはどうも。ありがとうございます」
「嫌いなんじゃないの」
「好きですよ。映画のラストシーンは印象的でした。とても幸福だとは言えなかったけれど」
言葉を返す隙もなく、彼は開いた扉の向こう側に消えた。
実は見てないと彼に告げられなかった言葉を飲み込んで、扉に背を向ける。別に――伝える必要もない。
立ったままで手を伸ばして、細い高音のちらつく雪のような音を、俺は右手の指先でもう一度、繰り返した。




おめでとうございます!!もう3周年とは…あっという間ですね!ここにきてまた人気の高まりの気配が見えるようで、素晴らしいです!これからもネヴァがもっと人気になって、TARHSさんも元気にご活躍されるように祈っております!


◆ 宮久うみ
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