『伯楽星の夜』 

世に伯楽有り。然る後に千里の馬有り。
 千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。

 ……嗚呼、それ真に馬無きか、それ真に馬を知らざるか。 

見慣れた日々の風景が、暮れの寂寥を帯び始めるのはいつからだろう。駆け込みの喧噪を経て、徐々に足音がまばらになっていく校舎。乾風が虚しく行き来する校庭。寂れていく景色の中、片手に足りる残日を数えて過ごすのは、線路の終わりに向かって粛々と雪を踏んで歩くような心許なさを伴う。一年という時間はこうして約束通りに消費され、終わりは等しく訪れる。何の気無しに過ごしているせいで、それがあまりに唐突に思えたとしても。
 十二月二十五日の図書室にもまた、年の瀬の光が差していた。
 薄墨に浸した筆でぽてり、ぽてりと撫で刷いたかのような淡い影が、書架の間に、木椅子の脚に、積み上げた本の傍らに伸び、錆びた濃淡を作っている。
「……馬には乗ってみよ。人には添うてみよ」
 丸テーブルの向かい側で和泉が呟いた。彼の口から諺めいた文句が飛び出すとは意外だったが、どうやら手元の文章を読み上げただけのようだ(後から考えたら、なかなか和泉らしい文言だ)。卓上に立てた本の表紙には『Let's Enjoy Riding』と緑色の文字。乗馬服姿の若い女性がサラブレッドに股がり、にこりと笑みを投げている。
「あとで乗せてくれるかな」
「どうかな。頼んでみたら」
 開いていた大型の図鑑を閉じ、左右に四、五冊ずつ重ねた山のうち左側に載せる。こちらは戻す本だ。生物医学にも興味がないではないが、今必要なのは実用書だ。
「そろそろ戻ろう。向こうが心配だ」
 和泉が同意したので二人で手分けして本を戻した。家畜の生態、飼育についての本と数冊の馬術入門書を抱え、最後まで迷った末に『馬の物語集』を付け加えた。古今東西、馬にまつわる故事や伝承、民話などを集めた本で、なんとなく、彼が好きそうだと思った。
 年内での貸し出し受付は今日が最後になる。不幸中の幸い、間に合って良かった。カウンターで休み中に乗馬でもするのかと司書に問われ、曖昧に笑う。和泉はしれっと「そのつもり」と頷き、本を受け取った。
 湿った書物の匂いに背中を押され図書室を出ると、乾燥した膚がちり、と冷気に軋んだ。
 セピア色の陽に照らされた廊下は平穏な年末の風景そのもので、俺は一時、自分の置かれた異様な状況を忘れそうになる。
「急ごう」
 扉が完全に閉まったのを確認して和泉に囁いた。
「辻村が馬刺にされちゃたまらないよ」 彼は名馬だった……と思う。
 名伯楽ではない俺に、馬としての彼の良し悪しを評価するのは難しかったけれど、素人の目から見ても、彼はとても綺麗な馬だった。馬の毛並みの黒いのを『青毛』とか『青鹿毛』とか呼ぶらしい。彼はダークチョコレートを焦がしたような昏い被毛の青鹿毛だった。体躯は引き締まり堂々と大きく、黒々とした鬣が長い首筋を飾っている。すっきり整った面立ちに、額から鼻筋へすっと走る流星がどこか文学的な印象を深めていた。それはまるで物語に出て来る軍馬のような精悍さで、普通に馬場とか森とかで出逢ったなら、結構感動したかもしれない。
 問題は、まさに今、俺がこの名馬らしき動物と向かい合っている場所が、幽霊棟の101号室であるということ。
 そして、もう一つ。
「これ、煉慈だよ」
 和泉の台詞に、その場に居た全員が重ねて言葉を失った。ただでさえ、突如ふってわいた大型動物の出現イベントに混乱していたのだ。此処が辻村の部屋であり、この場に本人が見当たらないとしても、そんな言い分があるだろうか。
 クリスマスパーティーの翌日、しかも冬休み初日ということもあって、今朝は幽霊棟全体が緩やかなスタートを切っていた。それ自体は前日からの取り決めだったので、正午近くに食堂に入った時の違和感は、ごくごく些細なものだった。キッチンに火が入っておらず、食事の支度が出来ていない……つまり、辻村が起きていないのだと気付き、俺は首を傾げた。とても珍しいことではあったが、正直なところ、その時はまだ頭がぼんやりしていた。様子を見に行った和泉が「煉慈が馬になっちゃった」と表情一つ変えずに報告してくるまでは。
「どうしてレンレンだってわかるんだよ?」
 半ばやけくそのように瞠が尋ねる。馬に寄り添った和泉はそっけなく肩を竦めた。
「返事したから。質問も出来た。普通に寝て起きたら、こうなってたんだって」
 茅も瞠も、勿論俺も目の前の馬を見つめたが、彼が人語を話し始める気配はない。狭い部屋の真ん中で巨大なケモノが悲しげに頭を垂れる光景はなかなかにシュールだ。時折、細長い耳が神経質に左右に振れている。こんな狭い場所に閉じ込められて相当にストレスが溜まっているようだ。また清史郎の悪戯だろうか。でも年明けならともかく、どうしてこのタイミングで馬なんか……。つい、いつもの癖で放浪癖のある友人を疑っていると、黒い大きな瞳と眼が合った。
 馬は精悍な体躯に似合わず、とてもデリケートで臆病な動物なのだという。誰かさんみたい、と思わなくはない。でも、だからと言って……。
 物言いたげな視線を受け、恐る恐る尋ねた。
「辻村なの……? 本当に?」
 馬は短く鼻を鳴らした。そしてひどくぶっきらぼうな動作で首を縦に振り下ろす。その瞬間、途方も無い脱力感と絶望が頭の中を席巻した。直感だった。これは辻村だ……たぶん。言ってる端から頭がおかしくなりそうだけど、この馬は辻村煉慈に違いない。
「ひどい……。いくら辻村が馬面で来年が午年だからって……!」
 これがもし毒虫だったら幾らかでも文学的だったのに。顔を覆って嘆いた所で投げやり過ぎる設定を書き換えられるわけではない。馬が――たぶん中身は辻村であろう雄馬が、不機嫌そうにドカドカと蹄を鳴らした。
「怒ってる」
「白峰、近づいたら危ない。こっちに」
「床が抜けちゃうって! レンレン、どうどう……!」
 現実逃避か、行き過ぎた状況把握能力なのか、馬の挙動を前に俺たちはすっかりこれが辻村本人だと認めてしまっていた。実際、見ず知らずの馬が作為的に部屋に押し込まれている、なんて得体の知れない状況より、友人が馬に変身してしまったと思う方がなんとなく気が楽……かもしれない。いつか元の姿に戻れるなら、という条件付きでだが。そして今のところ具体的な解決策を思いつける者はこの場に一人としていなかった。
 機嫌を損ねた辻村(馬)を宥めるのは大変だった。元から長身だったけれど、今はちょっとスケールが違う。おまけに四本脚だ。硬い蹄で足踏みするだけで建物全体が嫌な音を立てて軋み、ぐらぐらと揺れた。至近距離で響くいななきに鼓膜が破れそうだ。そんな状況だったから、気怠げに階段を降りて来る二つの足音になんて全く意識がいかなかった。
「おい、さっきから何だ。頭に響……」
「みんなおはよう! 一体なんの騒……」 
 遅過ぎる朝の挨拶は途中で掻き消えた。煙草とアルコールの匂いだけが沈黙の空間に虚しく漂う。
「………」
「………」
 開け放したドアの向こうで固まっている槙原先生と賢太郎は、まるで仲の良い双子のように同じ表情をしていた。もっともつい数分前の俺たちも似たような顔で並んでいたんだろう。
 二人が凍り付いた時間を融かすのも、示し合わせたかのように同時だった。
「いつからここはふれあい動物パークになった?」
「ええー! すごい、本物の馬だ! どうやって連れてきたの?」
 さりげなく賢太郎が咥えた煙草をむしり取りながら、先生が一歩、若干慎重な足取りで、巨大な動物に近づいた。相手がおとなしくしているのを確かめ、そっと鬣を撫でる。
「かわいいね。クリスマスのサプライズか何か? でも他所様の家畜を連れ出しちゃだめだよ。さ、一緒に返しに行こう!」
 俺は気が気じゃなかった。
 先生の無邪気なディス発言に、馬の黒い両耳が引き攣っている。
 慌てて瞠が馬と先生の間に割って入った。
「えっと、こいつ家畜じゃないんすよ」
「んー……あ、わかった。茅くんの馬?」
「確かに実家で所有している馬は居ますが、これとは種類が違うと思いますよ」
「本当に飼ってた! 茅くんは乗れるんだ?」
「馬具があれば……」
「すごーい! 今度教えてよ」
 目の前の異常事態そっちのけで盛り上がる先生に呆れつつ、確かに乗馬ができるって格好いいなんて、ちらっと考えてしまう。どうせ乗るならもっと優しそうな馬がいいけど。
 茅は満更でもなさそうににっこりと笑みを深めた。
「喜んで。辻村号が調教されているといいんですが」
「辻村くんの馬なの」
「あー……そーじゃなくて、レンレンが馬……っていうか」
「そう言えば見ないな。煉慈はどこだ」
 ちゃっかり煙草を咥えた賢太郎が初めて口を挟んだ。静観というよりは、面倒事に関わりたくないオーラを隠そうともしていない。このまま馬の存在はスルーしようという魂胆だろう。口籠った瞠に代わり、茅と和泉が同時に答えた。
「ですから、ここに」
「これ。煉慈なんだ」
 再び空気が凍った。痛々しい沈黙に各々が視線を滑らせる。
「当て馬野郎ってのは……」
 苦い笑みを含み、賢太郎が長々と紫煙を吐き出した。
「ブラックが過ぎないか?」
「そうだよ、いくら辻村くんが馬っぽい顔だからってー……」
 激しい嘶きと共に馬の前足が高々と上がった。鉛の塊が落下したような衝撃に幽霊棟がそっくり浮き上がる。本棚からバラバラと本が零れ、タイミング良く跳ね上がった後脚がその一冊をびしゃりと壁に叩き付けた。大切にしていた本に自ら危害を加えてしまったことが更に馬の繊細な神経を刺激したらしい。雷鳴のような嘶きと悲鳴、縦揺れ地震さながらの鳴動。阿鼻叫喚とはこの事だ。
「わー! レンレン!ストップストップ……ッ!」
「辻村やめて!怒らないで!」
 彼が前を向いていたのは不幸中の幸いだった。後脚が直撃していたら賢太郎が儚くなっていたかもしれない。半ば振り回されながらも瞠と共に首に縋り付き、子供を宥めるように鬣を撫でる。
「お願い、大人しくして! ね、いいこいいこ……」
 さほど持久力は無いらしい辻村(馬)は、荒い息を吐きながらも徐々に平静を取り戻していった。短い被毛がしっとりと湿っているのに気付き、馬も汗をかくんだなと不意に感心した。
「僕も触る」
 馬が落ち着いたのを見ていそいそと和泉が寄ってきた。じっとしていてくれさえすれば悪態をつかない分いつもより可愛げがある。瞠もほっとした様子で逞しい首筋をぽんぽんと叩いた。
「馬か……。辻村、変身にはどんな呪文が必要なんだい」
 戯れる俺たちを眺めていた茅がぽつりと呟いた。眼光の鋭さを見るにどうやら本気らしい。辻村(馬)はどこか忌々しそうに大きな目を瞬いた。「代われるものなら代わってくれ」とでも言いたげだ。
「ほ、ほんとに辻村くんなの?」
 槙原先生は完全に腰が引けていた。苛々と前足で床をかきながら、馬が頷く。種族を越えたコミュニケーションに成功してしまった先生の顔色は今度こそ真っ白になった。
「二日酔いかな……あはは……」
「俺たちだって信じられないよ。でも……」
 改めて、変わり果てた友人を蹄から耳の先っぽまで眺める。黒く濡れた瞳から注がれる眼差しはあまりにも真摯で切実だ。目下の対処に追いやられていた困惑がじわじわと蘇って来た。
 目が覚めてみたら、友人が馬になっていました……だなんて。サンタクロースのプレゼントにしては悪趣味だ。どうして辻村はこんな事になってしまったんだろう。そして、一体どうしたら元に戻るんだろう。倒すべき悪い魔女も、魔法の薬も此処にはないのに。
「どうしよう、先生」
「えっ、うーん……どうしようったって……」
 先生もまた心底弱り切っていた。賢太郎が、ふっと煙を吐き、吸い殻を携帯灰皿に放り込む。
「馬刺は美味いよな」
「そうだね。昨日飲んだ『伯楽星』にも合う……て、そうじゃなくて!」
「冗談だ」
「目がマジだったよ?!」
「落ち着け、先生。この馬畜生が本当に煉慈だったとしてだ。原因も解決法もわからないんじゃ、勝手に戻るのを待つしかないだろう。厩舎に連れてって飼い葉でも喰わせてやれ」
 賢太郎は盛大に上下にぶれる指先を器用に操り、手品師のようにひょいと新しいマルボロを咥えた。そして、灰にも似た細かな塵を零す天井をちらと見上げ、
「そうでもしないと、ここが崩壊するぞ」
「誰のせいだと思ってんだよ!? この人でなし!」
 命の危機に瀕した馬の怒りは凄まじかった。床に亀裂が走った段階で101号室は完全にパニックに陥った。だから瞠の怒号が賢太郎に届いたかどうか、ちょっと定かでない。卑怯にも安全圏に退避していた賢太郎は一人悠然と空煙草を咥えていた。
「鬣の下の脂が美味いんだ」
「だから刺激すんじゃねえ駄犬!」
「久保谷くん。そういう言葉は……」
「先生、やっぱり乗馬は難しそうですね」
「駄目だよ辻村! その脚で蹴ったら流石に死んじゃう!」
「デッド・オア・アライブだからね。僕は煉慈を応援する」
 結局、辻村(馬)は半壊した自室を目の当たりにして、唐突に我に返った。賢太郎の言う通り(殆ど彼が招いた人災だけど)、こんな事を続けていたら幽霊棟ごと崩壊しかねない。皆で協力して辻村を外に引っ張り出した。隙あらば辻村が賢太郎に噛み付こうとするので、その度にちょっとした騒動になる。何せ手綱もないのだから止めるのも一苦労だった。賢太郎ももう少し大人の対応をとってくれればいいのに。
 厳正なる押し付け合いの結果、世話係には俺と和泉が選ばれた。ちなみに和泉は立候補だ。動物は好きだけど、相手は馬……犬や賢太郎をこっそり飼うのとは勝手が違う。図書室にハウツー本を探しに行く間、爛れきった大人が変な気を起こさないよう、或いは彼の担当編集者が万一押し掛けて来た時の対応のために瞠と茅に見張りを頼んだ。
 本を抱えて幽霊棟に戻ると、庭木に繋がれた辻村号はいくらか従順になっていた。時刻は午後二時を回っている。早くも傾き始めた陽に忘れていた空腹を感じた。辻村にもまずは食事をあげなくては。
「本物の馬と同じでいいのかな」
「ニンジン持ってきた」
 和泉が歪にカットされたニンジンを差し出したが、辻村は苛立たしげに首を振る。和泉は少し傷ついた顔をした。
「食べない」
「うーん……中身は辻村だからね」
 干し草や専用の固形飼料が最適……と本にはあるが、生野菜も駄目なら試すだけ無駄だろう。
 もしも突然、俺が馬になったとして――。
 辻村の濡れた鼻先を眺めながら考える。やっぱりドレッシング無しの草の塊なんて死んでも食べたくないと思う。どうやらあまり役に立ちそうにない本を閉じ、俺は小走りに食堂に取って返した。ここまで気の狂った状況だ、折角借りてきたけどマニュアルに頼らない方がいっそ上手くいくかもしれない。
 昼ご飯にと槙原先生が作ってくれたサンドイッチを差し出すと、辻村はあまり有り難くなさそうにもそもそ食べ始めた。お腹を壊すといけないから、中身はチーズと野菜だけだ。
 首を垂らし、俺の手から食事を摂る辻村はなんとなく健気だった。ただ、変な事を口走ってまた暴れられると困るので黙って見守る。と、いつもなら交代をねだりそうな和泉が大きな図鑑を片手に、辻村号の回りをうろうろと周回し始めた。
「和泉は何やってるの」
「これ」
 振り向き様に和泉がびらっと拡げた見開きページは、馬の組織図だった。
 断面図に骨と筋肉が詳細に描き込まれ、結構生々しい。
「体の名称を調べてる。ここが項」
 なだらかに下降している首の天辺付近にぽんと手を置く。そのまますっと鬣に沿って掌を滑らせ、首の付け根のあたりで丘のように盛り上がった場所にタッチした。
「首の終点。この凸凹が、き甲」
 和泉は嬉しそうだった。辻村がサンドイッチに集中しているのをいいことにペタペタと各部を触りながら跳ね回り、馬体の名称を読み上げていく。ただ、そのうちに「上腕頭筋、上腕三頭筋……こっちは僧帽筋……」などと若干不穏な呟きが混ざるようになった。
「こんなに早く実技が出来ると思わなかった。すごく興奮する」
「ちょっと……間違っても解剖しないでよ」
 前脚の辺りに屈み込んでいた和泉が、心外そうに目を細めた。
「僕はマッドサイエンティストじゃない」
 辻村号が身じろぎをする。和泉は立ち上がって優しくその鼻先を撫でた。
「馬刺も嫌い」
 大きな馬と小さな和泉が戯れている光景はなかなか微笑ましいものだった。
「煉慈にお願いがあるんだ」
 一頻り検体を可愛がった和泉はそう呟くと、再び図説に目を落とした。そして、そこに書かれているらしい一節をすらすらと読み上げる。
「……野生環境にない家畜用の馬は、硬い土や芝、アスファルトなどを歩行する事によって蹄が損耗するため、蹄鉄を用いて爪を保護する必要がある」
 思わず、辻村(馬)と顔を見合せた。
 和泉は続ける。
「神経は爪の深い場所にあり、通常の釘打ちや焼き鉄によって馬が痛みを感じることはない……」
 期待を籠めた眼差しが、黒光りする辻村号の蹄に注がれている。
「打ってみてもいい?」
 馬のそれに負けず劣らずの大きな瞳には、それはもうキラキラと、破裂寸前の無垢の輝きが宿っていた。
 辻村が怯えたように後ずさり、尻尾の先までぶるりと震えた。
 
 
 蹄鉄は阻止したものの、和泉はその後、馬体を丸洗いをしたいと言い出し、すったもんだの末に世話係を一時解任されてしまった。真夏ならいいだろうけど、この寒空の下で放水なんかしたら凍えてしまう。それでなくとも吹き晒しでは難儀だろうと思うのだが、床の強度が心配だったし、本人も嫌がったので夕食後も庭の目立たない場所に繋いだままにしておいた。皆が代わる代わる様子見に来ては無謀な乗馬を試みようとするので、彼はすっかり臍を曲げてしまったのだ。ペットのように扱われる事に加え、武器としていた弁舌が全く用を為さなくなったことも、プライドを傷つけたのだろう。
 ――雨が降らなくて良かった。
 すっかり気疲れしてしまった体をベッドに投げ出し、腕を交差させてぐいと伸ばす。凝り固まった筋を解しても、どこか気持ちは落ち着かなかった。ネットの天気予報では快晴の予報と共に、夜半から朝にかけて激しい寒波の到来を予告していた。
「辻村……大丈夫かな」
 やっぱり外は寒いんじゃないだろうか。気になって窓から顔を出すと、玄関から伸びた淡い光の端っこで辻村が足踏みをしているのが見えた。三階から見下ろすと体の大きさを感じないからだろうか。馬になっても相変わらずだった尊大さは鳴りをひそめ、その佇まいは酷く心細げに見えた。どうしよう……これではとてもじゃないけど眠れそうにない。
 足音を忍ばせて滑り出た夜の庭は、凛と刺すような静寂を湛えていた。羽織ってきたコートを慌ててかき合わせる。月のない空には北極星を中心に星座が賑やかに瞬いていた。
 黒いシルエットがつと首を持ち上げる。互いに吐く息が白い。艶やかな毛並みは夜の暗闇に半ば以上融け込んでいた。
「可哀想。冷えちゃって……」
 和泉が掛けてやったと思しき毛布が背中を覆っていたが、当然脚までは届いていない。冷たい首筋に掌を押し付けると、その下で人の物ではない心臓がどっ、どっ、と脈打つのを感じた。
「中に入ろう。床が抜けたら俺が一緒に謝るから」
 一瞬、耳をひくつかせた馬の表情は、極めてバツが悪い時に見せる友人の渋面を彷彿とさせた。それでも凍えるよりはマシと思ったのだろう。足の付け根を叩いて促すと、渋々といったていで歩き出した。数歩もいかず、不意に脚が止まる。
「何?」
 馬の目は、真正面の景色を捉えることが出来ない。側面から見上げると、辻村(馬)は二、三、気まずそうに瞬いた後、ぎこちなく前脚を地面に折った。次いでゆっくりと後脚を畳む。やっと手が届くくらいだった背中が、まるで差し出されるように目の前にあった。
「もしかして、乗せてくれるの?」
 勘違いするなよ。ほんのそこまでだ。
 じっと俺を見つめる辻村(馬)が、そう言った気がした。よじ登る間に何度かお腹を蹴ってしまったけれど、調教されていない辻村号は走り出す事もなく鬱陶しげに耳を寝かせながらも、じっと我慢してくれた。
「うわ……。ちょっと怖いかも」
 身長の倍はあるだろうか。不意に広がった視界に眩暈がした。背中の窪みにおさまっているとはいえ、鞍も鐙も無い状態で姿勢を保つのは難しい。仕方がないので鬣に沿って腹這いになり、首に縋り付くような恰好になった。乗っているというか、病人が運ばれているようにしか見えないのがちょっと情けない。
 俺を振り落とさないように、しかし軽々と彼は歩き出した。思いの外に一歩一歩の震動が大きい。思わず鬣を引っ張ってしまったが、その部分は痛覚がないのか辻村は平気な顔で歩を進めている。乗せてくれたのは嬉しいけど正直数歩で充分だった。無事に辿り着いたら、玄関の柱を伝って降りよう。
 土を蹴る蹄の音。硬くしなやかな皮膚が、筋肉に沿って蠕動する。一朝に四足歩行になったのに、脚が縺れないのが不思議だった。まるで最初から馬だったみたい。不意に、袖の隙間から北風が忍び来んだ気がして、俺はぶるりと震えた。
「馬だとなかなか男前だよ。静かでかわいいし……でも、このまま君が元に戻らなかったら困るな」
 彼はとても暖かかった。そして当然のように一言も返事をしなかった。
 ――本当に、辻村なのかな。
「俺が言ってる事、わかる?」
 鼻先を押し付けると晴れた日の草原の匂いがする。煙草でも、醤油とみりんの煮詰まったおつゆでも、万年筆のツンと鼻をくすぐるインクの匂いでもなく。
 このまま本当に辻村が馬になってしまって、言葉まで通じなくなってしまったらどうしよう。理由も分からず、別れも告げず、いつか俺の事をすっかり忘れてしまったら?
 答えてくれる友人はいなかった。
 彼だったらこんなとき、心ない言葉で罵倒するか、少し面映いくらいの台詞で俺の心配を打ち消してくれるのに。
 昼間、自分で丁寧にブラシ掛けした鬣をぐしゃぐしゃに握った。乗馬体験の終点はすぐそこ。彼は少しも歩調を変えなかったけれど、ほんの少し毛並みを濡らしてしまったこと、どうか最後まで気付かないでいてくれますように。
 玄関の床は僅かに不穏な音を立てつつも、なんとか馬一頭分の体重を持ちこたえてくれた。やはり部屋に入れるのは難しいだろう。皆を起こしても悪いし、俺と辻村(馬)はのろのろとソファの辺りに落ち着いた。室内に入ってしまうと、体温の高い彼は毛布無しでも平然としていた。部屋から持ち出した有りっ丈の毛布には俺が代わりに包まった。
 眠くなるまでのつなぎに図書室で借りてきた『馬の物語集』を取り出すと、彼は立ったまま首だけを傾けて覗き読みしていた。馬になっても文学好きは変わらないのか。やはり、中身は辻村のままだ。四つ足では作家活動もままならないけど……。
「……ねえ、辻村。そういえば締切近いって言ってなかった? 明日?」
 急に気になって傍らの馬に問いかけた。
 結構真剣に文字を追っていた彼は、ふい、と面長の顔を上げ、諦念に満ちた黒い瞳を僅かに曇らせる。責任感が強くて、文学を自らの手で生み出す事に人一倍の誇りを持っている彼が、こんな理不尽な理由で筆を折らなければならないなんて。俺は心から同情した。でもこんな時、一体どんな言葉をかけたらいい?
 無二の才を持たない僕に、その哀しみや憤りを想像するのは難しい。泣きたいのはきっと辻村の方なのに、俺が勝手に落ち込むのはおかしいと思う。だから虚勢と見抜かれてしまったとしても、肩を竦めて、そっと横目に笑ってみせた。
「それなら意地でも元に戻らないとね。この話じゃないけど、やっぱり伯楽だって、肝心の名馬がいないんじゃ形無しだよ」
 辻村が読み耽っていたページをちらりと見遣る。
 世に伯楽あり、然るのちに千里の馬あり。
 千里を走ることのできる馬がいたとして、しかしそれを見抜く目利きの者がいなければ、その馬は凡百な家畜として不当な扱いを受け、才を活かすことなく一生を終えてしまう。名馬はいつの世にもいるけれど、伯楽は常に存在するとは限らない……。伯楽とは元々、中国の神話で天馬の世話をする星の名前なのだという。
 黒い瞳がゆっくりと瞬いた。
 ――つけあがるなよ。
 古典と民話の区別もつかないやつに伯楽が気取れると思ってるのか? 毎回途中で寝やがるくせに……。
 馬と見つめ合いながら、辻村が言い返しそうな言葉を想像した。
 彼はきっと、名馬なんだろう。俺には馬の良し悪しなんてわからない。それは彼の小説を読んで、その文学的な価値を論じる力を俺が持っていないのと同じ事。でも今の君に対してそう感じるように、君の物語も、俺は綺麗だと思う。失くしてはいけないものだとわかる。
 額の流星を指先でなぞり、そっと顎の下から腕を回して暖かい毛皮に頬を寄せた。彼は一瞬ぎょっとしたように身じろぎしたが、殊更に暴れたりはしなかった。外見は可愛くても、中身は辻村なんだっけ……人型に置き換えたら途端に悲鳴が上がる絵面だ。けれど現に彼は馬であり、こうして触れていないと、どこかに行ってしまいそうで怖かった。
「伯楽って、北斗七星の近くにあるんだって。さっき君の背中からよく見えたよ 」
 馬の星にお願いしたら、戻るかな。
 俺の呟きに名馬は呆れた様子で鼻を鳴らした。
「そうかな。やってみなきゃわからないよ」
 態度の悪い馬は放っておいて、俺は目を閉じる。瞼の闇が降りると、ふんわりと睡魔が忍び込んできた。――眠る前に、伯楽の星にお祈りを。
 どうか、辻村を元に戻してあげて。
 せめて万年筆が握れるように身体だけとか……。あまりぞっとしないけど、半分くらいだったら(そして一日だけだったら)俺が引き受けてあげるから。「白峰……。おい、白峰! 起きろ!」
 ひどく懐かしい声が心地よいまどろみを濁らせた。前触れ無く乱暴に揺さぶられ、混濁する記憶を整理する暇もなく、重い瞼を押し上げる。すかさず朝陽が瞳を灼いた。白い帯のように窓から射す光の中、ぼやけた輪郭が揺れている。それは俺を起こした声と相応に人間の形をしていた。
「辻村、戻ったの?!」
 ソファに沈む俺を覗き込んでいるのは、一頭の黒い馬ではなかった。鬣の代わりに乱れた前髪が。耳も目も小振りになって、顔は相変わらず長かったけど、苦虫を噛み潰したような不機嫌な表情は確かに憶えのあるものだった。喜んで半身を起こしたのもつかの間、彼の全身像が視界に飛び込み、俺は絶句した。
「ちょっと……なんて恰好してるの」
 辻村は真っ裸だった。あれが夢でなければ、つい数時間前まで馬だったのだから当たり前だけど……。せめてパンツくらい履いてから起こしてくれればいいのに。俺の批難の眼差しを受けた辻村は「注目する場所が違う」と忌々しげに吐き捨てた。
 ばさっ。
 突如乾いた音を立て、黒い帚のような物が彼の尻の後ろを過った。いや、横切ったのではない。それは辻村の尾てい骨のあたりに束になってぶら下がっていた。見覚えのある艶やかな黒い毛並みが緩やかなカーブを描きながら、腿の中程にまで流れている。
「それ……尻尾……?」
 そんな馬鹿な……確かに一部だけでもって願ったのは俺だけど。正真正銘のホーステールを生やした辻村はそこで何故か、哀れむような眼差しを俺に注いだ。
「残念なのは、俺だけじゃないぜ」
 辻村は両手を自らの耳に当て、ひらひらと指先を振ってみせる。触ってみろと言う事か。訝しみながら言われた通りに両手を持ち上げた。
「ひゃっ?!」
 ふにゃりと、何かやわらかな手触りを感じ、俺は小さく飛び上がった。俺の耳が、無い。その代わりに短く柔らかい毛皮に包まれた三角の物体がにょきにょきと延びている。窓に映った自分の姿に今度こそ腰が砕けた。
 両耳が在るべき場所に、細長い動物の耳が生えていた。
 ほんのり淡いクリーム色をしているが、俺にはわかる。昨日、嫌というほど眺めた形。これは馬の耳だ。
「中途半端過ぎ……。少しだったら代わってもいいって言ったけど……」
「何をぶつぶつ言ってるんだ」
 腰に毛布を巻き付けながら、辻村が眉を寄せる。尻尾さえ隠れてしまえば彼は完全に普通の人間だった。ズボンが履けるんだろうか、という疑問は残るけど。
「……これからどうする。俺はとりあえず仕事をする」
 丸ごと馬になった経験がそうさせるのか、辻村は奇妙に落ち着いていた。……違う、よく見ると目が完全に据わっている。些細な体の変化などよりずっと切迫した事情、すなわち締切という重責が彼を追い立てているのだ。
「年内最後の締切だ。絶対に落とせない」
「そう……」
「お前は?」
 半ば放心しつつリアルファーの耳を弄りながら、俺は昨日から続くこの異様な状況についてぐるぐると思い巡らせた。
「匿って」
 数秒後に弾き出された結論は、とてもシンプルだった。
「馬刺にされたくない」
 辻村がくたびれた笑顔で頷き、僕らはどちらからともなく拳を打ち付けあった。こんな事をするのは随分久しぶりだ。知り合って三年目にして、馬もどきのコンビ結成なんてあんまりだけどね。
 皆がまだ降りて来ないのを確かめ、急いで湯を沸かし、カフェオレを保温ポット一杯に用意した。食堂に俺の署名で一日出掛ける旨の書き置きを残すと、備蓄のお菓子やパンをありったけかき集めて辻村の部屋に篭城する。ドアには鍵を。駄目押しに『締切前につき立ち入り禁止』と辻村が書きなぐったレポート用紙を貼付けた。
 その日、辻村は扉越しに様子を尋ねる先生や友人に生返事をしながら、半ケツで原稿用紙に齧りつき、私語厳禁の俺はお菓子を片手に辻村の尻尾を三つ編みにして過ごした。
 ふさふさの毛束で遊ぶうちに、うとうとと時間の感覚が薄れていく。
「床で寝るなよ」と辻村が振り向きもせずに言うので、有り難く布団を拝借した。
 大きな動物の背に揺られているみたいな、温かなまどろみ。
 昨夜と違い、互いに口を噤んでいても不思議と悲愴な気分にはならなかった。俺の耳も含めて、全てが夢だったような気もするし、仮に連綿と続く現実であったとしても、案外、体の形なんて些細なことなのかもしれない。突拍子もない出来事にだって、いつかは慣れてしまうのかも。
 でもやっぱり、君が小説を書けなくなったら困るから、今度こそちゃんと元に戻してくれるようにお願いしないと。勿論、変な条件をつけては駄目だ。今夜、伯楽星は見えるだろうか。
 鼻をくすぐるインクの匂い。
 新しい物語が紡がれていく微かな音を聴きながら、俺は目を閉じ、夜を待つ。




THE FOOLの発売も迫り、新たな展開を続けるネヴァジスタに日々心をときめかせています。
 四周目も素敵な年になりますように。
 更なるご活躍を心から応援しています!


◆ 佐保
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